石灰岩露天採掘跡

石灰岩露天採掘跡は史跡内の中央中腹部分の標高210m付近に位置します。
この地点は石灰岩露頭部の北側で表層地層がチャートに変化する境目石灰岩露頭部側にあります。
平成30年に辰砂採掘によって形成されたほぼ垂直な石灰岩の南北方向にのびる壁面が発掘調査によって確認されました。この壁面には熱水痕跡がみられ、蛍光X線分析により、Hg(水銀)の高い反応が確認されています。
確認された状況から、採掘当時は垂直方向の割れ目に辰砂を含有する鉱脈が存在し、採掘場所を確保しながら下方に掘り進めた結果、現在に見える壁面状の痕跡が残ったものと考えられています。


露天採掘跡


弥生時代の採掘イメージ

展開する採掘地点のイメージ図
徳島県教育委員会 2019『赤色顔料生産遺跡及び関連遺跡の調査―若杉山遺跡 発掘編―』より転載

採掘坑跡1

採掘坑跡1は史跡の北西、標高245mの急斜面上に位置しています。
開口部が東側と南側の2箇所あります。東側開口部は高さ約90cm、幅約120cm。奥行きは東側開口部を起点に約12.7mあり、中心部の幅は約3m。高さは70cmから120cmとなります。
坑内壁面東西方向には石英脈が走っており、その石英脈を追うように横穴が穿たれています。断面は半円形のカマボコ状で、天井部には半球状の窪みが3箇所見られます。
坑内で行った発掘調査では弥生時代後期の土器(甕)小片が出土したほか、石杵の破片が十数点、辰砂鉱石も数点確認されています。なお現時点で採掘に関連する鉄器が史跡内で発見されていないことから、採掘坑跡1は石器のみで穿たれた跡であると考えられています。


採掘坑跡1東側開口部


採掘坑跡1平面図・断面図


坑内風景


坑内中央天井に見られる半球状のくぼみ

 

 

チャート岩盤辰砂露頭採掘跡

令和6年度の発掘調査で日本最古の「火入れ法」を利用した採掘跡が確認されました。場所は史跡南西部に位置する13段ある段々畑の10段目南側谷筋にあります。
令和6年度、阿南市では史跡整備事業に関連した発掘調査を実施。この調査においてチャート岩盤を下方向に掘り込んだ幅40cm、深さ50cmの人為的な窪みが見つかり、更に壁面には煤の付着が確認できました。
窪みの縁付近には節理に反した脈を確認しており、この脈直上で実施した蛍光X線装置測定では約300ppm台の高いHg(水銀)値が得られました。
当該窪みは辰砂採掘の痕跡であり、採掘時期は弥生時代後期の土器片が多く出土していることや、窪みに堆積した土壌内から採取した木材炭化物の炭素年代測定の結果などから、弥生時代後期の辰砂採掘痕跡であると確認できた。


煤の付着状況

※火入れ法採掘のついて

火入れ法とは別名「焼き堀り」「焚火法」などとも呼ばれている火を利用した採掘方法です。その方法は岩盤の表面を薪などで燃やし、加熱膨張させ、岩盤を脆くし、脆くなった岩盤を打撃により剥ぎ取る技術です。火入れ法は世界的には「Fire-setting」と呼ばれ、紀元前60年頃に古代ギリシャの歴史家ディオドロスが残した書物『歴史叢書』に「(要約)エジプトの金鉱山採掘で火入れ法の技術が使われた」との記載が残るなど、火入れ法は紀元前からある採掘方法です。また1世紀に古代ローマの博物学者プレニウスが著した『博物誌』の中にも、金の採掘方法について「燧石の塊にぶつかる。それを火と酢を用いて砕く。」との記載があります。若杉山遺跡と同時代の中国(漢代)でも、辰砂の採掘で火入れ法(中国では「火爆法」と呼ぶ)技術による採掘が行われていることが指摘されています。
日本国内において火入れ法採掘について、江戸時代初期に黒澤元重によってまとめられた鉱山書『至寶要録』に記載があります。『至寶要録』は当時の鉱山技術を知るうえで貴重な文献資料であり、その中に「余り堅きは火を入れて焼くなり、【省略】石やわらかになることなり」と火入れ法について書かれています。さらに古い記録として、『続日本記』寶亀元年(770)2月22日の項に「石を焼き酒を注ぎ粉々に割る」との記載されています。鉱山採掘で使用された記録ではありませんが、奈良時代の日本においてすでに火を利用して岩石を粉砕する技術があったことがわまります。
現在において火入れ法の痕跡は、山形県尾花沢市にある国史跡延沢銀山遺跡の江戸時代初期の坑道「銀坑洞」で見ることができます。炎は同心円状に広がり、中心ほど熱が強い。そのため、岩盤を火で加熱した場合には半円状に劣化し、剥ぎ取られます。そして剥ぎ取られた痕跡は半球形状となります。このような火入れ法の採掘での痕跡が延沢銀山遺跡銀坑洞坑内の随所に残り、さらに薪木などの煙による「煤」が壁面に確認できます。


火入れ法採掘が認められた採掘跡の原風景(段々畑跡地)

 

遺構位置図