市長通信-お元気ですか

公開日 2017年02月24日

2018年

 


●市長通信 お元気ですか バックナンバー

 

1月 60歳、還暦の阿南 先人の労苦に想いをはせて

新年おめでとうございます。市民の皆さまの今年一年のご健勝とご多幸をお祈りしながら、本年最初の市長通信の筆を執らせていただきます。
さて、今年は阿南市が誕生して60年を迎えます。昭和33年5月1日に当時の富岡、橘の2町が合併し、県下で4番目の市として産声を上げました。この年は、大相撲が現在の6場所制へ変更、パリのエッフェル塔をしのぐ世界一高い東京タワーが完成しました。また、11月には皇太子殿下と正田美智子様の婚約が発表され、初めて民間出身の皇太子妃殿下が生まれることや軽井沢のテニスコートのロマンスなど、ミッチー・ブームが国中を席巻し、国民が明るい時代の到来を意識しました。
しかし、私たちの阿南市は過酷な船出でした。困難な財政事情のもとで、新しい市としての基礎固めに専念しなければなりませんでした。阿南市は、合併前の富岡、橘両町から引き継ぐ形で、「地方財政再建促進特別措置法」の適用を受け、新市発足時から財政再建に取り組み、昭和40年度にようやく過去の赤字を解消するに至りました。その途上、昭和39年には新産業都市の指定を受け、20年間に約500社の企業関係者が視察に訪れています。初代阿南市長の沢田 紋(あや)氏は三木武夫元首相とも昵懇(じっこん)で、阿南高専誘致や工場立地を依頼しており、三木元首相が、本田技研工業株式会社創業者の本田宗一郎氏を橘湾へ招き工場誘致の協力を要請した歴史もありました。
以来、旧阿南市、那賀川町、羽ノ浦町の先人の努力が、今日の本市の隆盛につながっています。
市制施行60周年の意義は、過去の歩みを顧み、その苦難の道程を今一度思い出すとともに、来たるべき次の世代に今日までの歩みをどう生かしていくかにあると思います。「温故知新」…。過去と現在をいきいきと結びつけることができてこそ人の師になれると孔子ははっきりと言いきっています。
本年が、明日の阿南市を見つめられる良い年になりますよう期待したいと思います。

阿南市長 岩浅 嘉仁

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2月 あまりにも悲しい写真

「少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた」。この写真は、1945年にアメリカ軍の元従軍カメラマン、故ジョー・オダネル氏(復員後は、ホワイトハウス付きカメラマンとしてトルーマンからニクソンまでの5代の大統領に仕えました)が、原爆投下後の長崎で撮ったものです。彼の著作から当時のようすを抜粋します。「この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた」……。
フランシスコ・ローマ法王は、昨年末、世界の教会関係者に向け、この写真のカードを配布しました。カードには「焼き場に立つ少年」と題し、法王の自署と「亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ少年。少年の悲しみは、かみしめて血のにじんだ唇に表れている」とメッセージをしたためて、「核兵器は人類の平和と共存しない。この写真は、1000の言葉よりも人の心を動かしている」と語っています。
先般、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞し、核廃絶への世界的うねりの胎動を感じました。約2年前から始まった「ヒバクシャ国際署名」に、わが国の首長の署名は都道府県・区市町村の計1788自治体の54・64%にあたる977自治体にのぼっています。阿南市長の私も、昨年6月に署名し、国連に提出されました。
申すまでもなく、現実的には日本はアメリカの核の傘に守られていますが、世界の人々は唯一の被爆国日本が核廃絶の主張を望むのは当然のことだと思っているはずです。
原爆の製造にかかわったオッペンハイマー博士は、核兵器に対抗する手段はあるのかとの質問に、こう答えました。「もちろんありますとも。平和です」と。

阿南市長 岩浅 嘉仁

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     焼き場に立つ少年

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3月 阿南とベルギー、どんな関係が?

2月中旬、ヨーロッパのベルギー王国大使館、駐日特命全権大使ギュンテル・スレーワーゲン氏(写真右から5人目)が阿南市役所を訪れてくださいました。ベルギーに本社のある世界的な総合化学会社ソルベイのグループ企業で市内に立地しているソルベイ・スペシャルケム・ジャパン株式会社(社長、松岡 晃氏 内原町出身)の本社工場の視察を兼ねた来庁でした。
穏健でユーモアを兼ね備えた人柄に阿南高専の寺沢校長先生や小松元校長先生を交え、大いに会話が弾みました。
大使は開口一番、木をふんだんに使った庁舎を誉めてくださいました。「これらの木は、地元の木ですか」との問いに、私は日本古来から伝わる正倉院の木の話をさせていただきました。日本最古の木造建造物のひとつである正倉院は、全てその建物の周辺の木を使っている。材料と完成品が同じ自然の中で育っている大切さは、日本人がよく心得ている事ですと。
さて、ベルギーは、人口1,100万人、面積は四国の約1.7倍。王室は大変な親日家で、昭和天皇の大喪の礼では当時のボードワン国王夫妻が出席。ボードワン国王の葬儀には今上天皇夫妻が参列しています。首都ブリュッセルは、欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため、「EUの首都」と言われています。また、日本とは経済的なつながりも強く、ベルギーから見て日本は世界第2位の貿易相手国であり、日本から約7,000億円を輸入し、約4,000億円を輸出しています。その証左として、5,000人以上の日本人が在留し、3,000社以上の会社がベルギーに進出しています。
平昌オリンピックが閉幕し、次は2020年の東京オリンピックです。また、2025年次期万博開催には大阪が立候補しています。ライバルとされていたパリが立候補を辞退したというニュースもありました。前回の東京オリンピック成功は、東京が世界都市に認められる大イベントでした。しかし、前回の大阪万博は関西復権のスタートになるはずが一過性の行事に終わった感は否めません。
ヨーロッパ諸国に関西を売り込む方法は、慶応義塾大学の上山信一教授のアイデアが一番だと思います。「関西経済の中心・大阪はドイツ。大阪都構想は東西ドイツの統一と類似。文化の薫り高い京都はフランスに見立て、海洋都市・神戸を抱える兵庫はイギリス。和歌山はイベリア半島(スペイン)、そして商才に長けた近江商人の伝統を持つ滋賀はベルギー、海のない奈良はスイス」上山教授のこのアイデアを利用し、まさに関西は、日本のヨーロッパだと売り込んではどうでしょうか。
関西の一員と言われる私たち徳島県人は、この構想をどう考えるでしょうか。

阿南市長 岩浅 嘉仁

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4月 今年の桜を観る事なく逝ってしまった人

日本人の好きな木は、順位が高い順にサクラ、イチョウ、キンモクセイ、ウメ、ハナミズキ…といわれています。
「さまざまの こと思ひ出す 桜かな」(松尾芭蕉)
日本人は、それぞれの人が桜に「もののあはれ」を感じ、年々歳々の〝さくら〟に思い出を重ね合わせています。
「桜は花に顕(あらわ)れる」。これは、普段は常人と変わらないように見える人が何かの折に優れた才能を発揮することの例えであり、ほかの木に交じっている桜は、普段は全く目立たないが、一旦花が咲けば一目でそれと分かるという意味です。
人間 大杉 漣(1951年9月27日生、去る2月21日逝去、享年66歳)は、地味で静かな人間性でありながら圧倒的な存在感を持った名優でした。4人兄弟の末っ子。母は京都の銀閣寺の近くにあった下宿屋の娘で、大杉さんの父より3歳年上。父は京都大学在学中にその下宿屋で生活しており、二人は結ばれたそうです。父は38歳で小松島中学校の校長に抜擢(ばってき)され、小松島西高校、富岡東高校、城東高校の校長を歴任。息子の漣さんは、小学校6年生は富岡小学校、中学校時代は富岡中学校に在籍していました。
役者として、これからもいぶし銀の魅力がますます磨かれ、花の盛りを迎えつつあるこの時、静かな雄弁、沈黙の圧倒的な存在感を、もう見ることができません。
大杉さんは出演されていませんが、私の好きな映画に、中井貴一主演の「壬生義士伝(みぶぎしでん)」があります。南部盛岡藩の脱藩浪士で新撰組隊士の吉村貫一郎を主人公にした、義理と愛情を貫く姿を描いた作品で、市民の皆さんにもぜひご覧になってほしい映画です。その中で、中井貴一は言います。「盛岡の桜は石を割っても咲く!!」と。
「優作!!俺は今までお前が死ぬとこを何度も観てきた。そして、その度に、お前は生き返ってきたじゃないか。役者なら生き返ってみせろ!生き返ってこい!」故松田優作に対する原田芳雄の弔辞。
「桜花 命いっぱい咲くから 命を懸けて 眺めたい」(岡本かの子)
去る3月、紀伊半島南部で100年ぶりに桜の新種が発見され、「クマノザクラ」と命名されたそうです。大杉 漣さんに報告しておきます。合掌。

阿南市長 岩浅 嘉仁

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「水曜ミステリー さすらい署長 風間 昭平」
阿南ロケ終了後、主役の北大路欣也、伊武雅刀、
大杉 漣の各氏。阿南市役所北玄関にて

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5月 還暦。そして自信を持って新たなスタートを!

来たる5月1日、私たちの阿南市は市制施行60周年を迎えます。
県下では、明治22年(1889年)10月1日に徳島市が、昭和22年(1947年)3月15日に鳴門市が、昭和26年(1951年)6月1日に小松島市がそれぞれ発足。そして、昭和33年(1958年)5月1日に本市が誕生しました。
「栄枯盛衰」は世の常と言われますが、本市は財政再建団体のまま、本当に苦しい船出をしました。しかし、黎明期の市民は歯を食いしばり、苦しさに耐え、明るい明日を夢みて頑張ってこられたと思います。
四国東南部の入り口に位置し、紀伊水道に面し、丹生谷山地を負い、豊かな那賀川平野を擁する、これが郷土阿南の姿です。海、山、大河(那賀川は県内を流れる延長が吉野川より長い、県民の母なる川です)全ての自然条件に恵まれ、かつ発電所を中心に、人間生活に欠かすことのできない各種製造産業が立地する、理想的地方都市として成長してきました。
全国の自治体の中には、成人式のように還暦を第2の人生の出発として祝う還暦式と呼ばれる行事を行っている長崎県佐世保市や千葉県市川市の例があります。
西洋では結婚60周年はダイヤモンド婚式として祝われています。
私たちの阿南市も、構成する14町がそれぞれの特性を生かし、各町が地域の特色に一層磨きをかけ、連携をはかり、「チーム阿南」としてより輝きを増すための再スタートがこの60周年の意義だと思います。
「働く喜び、育てる楽しさ、憩う幸せ」「もっとやさしく、もっと元気に暮らしつづけられる町」…
このような阿南愛を大切にし、新しい一歩を踏み出していきたいものです。

阿南市長 岩浅 嘉仁

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6月 ほととぎす 四者四様

2020年は、東京オリンピックの年ですが、その年の大河ドラマが「麒麟(きりん)がくる」に決定しました。初めて智将・明智光秀が主役となり、多くの戦国時代の英傑が登場、従来とはまったく異なる新しい解釈で4Kフル撮影の作品となるそうです。この年は「戦国時代」ブームが到来することは確実でしょう。私たちが今まで描いてきた光秀像を覆すドラマになることは題名から推察できます。中国では古来、「麒麟」の子どもを「麒麟児」と呼び、大人も驚くような天才的な俊英ぶりを発揮し、将来その道の発展をもたらす天才少年だと解釈されていますから、光秀の少年時代からの神童ぶりと、長じての戦略的才能が、丹念に描かれると思います。
さて、日本史上の「三英傑」といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です。それぞれの人間性を「ほととぎす」に例えた言葉は、大方の日本人の人口に膾炙(かいしゃ)しています。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」(信長)
「人間五十年、化天(けてん)のうちをくらぶれば 夢まぼろしの如くなり」を舞った信長は、この幸若舞の通り、数え49歳で光秀に討たれました。その光秀も本能寺の変の11日後、落ち武者狩りに遭い56歳で命を奪われました。
「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす」(秀吉)
辞世「露と落ち 露と消えぬる わが身かな 浪花(なにわ)のことは 夢のまた夢」
日本歴史上、最大の知恵者で、立志伝中の天下人・秀吉は、ひたすら子・秀頼の安泰を思いつつ、62歳で逝去。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」(家康)
幼少の頃からの人質生活により、我慢と辛抱と忍耐の人生を地で行き、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、最終的な勝利者となった家康は、後顧の憂いなく74歳で昇天。
まさに三者三様の生き様を言い得た「ほととぎす」でした。
「豊臣秀吉は主人である織田信長の長所を見ることに心がけて成功し、明智光秀はその短所が目について失敗した」と語ったのは松下幸之助です。
「鳴かぬなら それもまたよし ほととぎす」(幸之助)
少年時代、病弱だった幸之助は、最も人間を知っていたのかもしれません。焦らず、たゆまず、無理をしない。自然体の哲学を持った経営の神様は94歳で長逝。
四者四様の「ほととぎす」を書きましたが、心の持ち方が寿命を決めることの参考になる言葉かもしれません。何歳まで生きたかという少し暗い話でしたが、最後に明るく「死ぬということには、ベテランや名人はいません。死ぬのはみんな初心者です」(永 六輔)

阿南市長 岩浅 嘉仁

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7月 やさしさ・ほほえみ・おもいやり

私は、名刺入れにいつも1枚のメモを入れています。
「少年は13歳のとき、広島で被爆した。枕元の父親に2つの問い掛けを残して息を引き取った。〈お浄土には羊かんがあるの?…お浄土には戦争はないね〉」
この文章は、平和擁護非核宣言都市の市長として時々、あいさつにも挿入しています。
最近、もう1枚、新聞記事をしのばせています。この1枚は終生持ち続けなければならないと思います。あえて全文を紹介します。


「ママ もうパパとママにいわれなくても
しっかりじぶんから きょうよりか
あしたはもっともっと できるようにするから
もうおねがい ゆるして ゆるしてください
おねがいします
ほんとうにもう おなじことはしません ゆるして
きのうまでぜんぜんできてなかったこと
これまでまいにちやってきたことを なおします
これまでどんだけあほみたいにあそんだか
あそぶってあほみたいだからやめる
もうぜったいぜったい やらないからね
ぜったい やくそくします」

 

ご承知の通り、先日、両親の虐待により衰弱死した船戸結愛(ゆあ)ちゃん(5歳)の文章です。私が全文を掲載させていただいたのは、この文章を切り抜き、大切にされる市民の方がいるだろうと思うからです。
現場のアパートから見つかった1冊の大学ノートに、覚えたてのひらがなで書いた文章です。
このような理不尽でむごたらしい事があってはならず、不憫(ふびん)で、不憫で仕方ありません。
人生のつぼみの時期に、あまりにも儚(はかな)くつらく、1字1字に自分の生命を削りながらの必死の訴えだと思わずにはいられません。名前の通りの「愛を結ぶ」ことができず、幼心にも無念であったことでしょう。
去る6月9日、阿南市民生委員児童委員協議会総会が開催されました。私は、あいさつの冒頭「どうしても生き返らせたい生命があります。それは船戸結愛ちゃんです」と申し上げました。多くの方々が大きくうなずいてくれました。
市内197人の委員の皆さまは、厚生労働大臣から委嘱された非常勤の地方公務員で、ボランティアとして活動していただいている方々です。その活動は、高齢者や障がいのある方の安否確認や見守り、子どもたちへの声掛け、医療や介護の悩み、子育ての不安、経済的困窮による生活の心配、児童虐待、さらに災害に備えた取組など多岐に及び、それぞれ私なく献身を続けていただいている立派な方々ばかりです。この委員の皆さまとともに、全ての人々にやさしさと、ほほえみと、おもいやりを提供し、幸せな阿南市にしたいものです。

阿南市長 岩浅 嘉仁

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8月 災害考

「天災は忘れた頃にやってくる」。あまりにも有名な言葉ですが、今では「災害はいつでもどこにでもやってくる」と言ったほうが確かになりました。
災害の「災」という字は、「巛=水」と火から成り立っています。水という字がちゃんと入っています。
人間は水がなければ生きていけません。地球は3分の2が海です。私たちの体も3分の2が水から出来ています。
しかし今、世界の地球温暖化等による異常気象は「雨と風が地球を丸洗いしている」あるいは「今回の泥流と土砂に埋まった被災地の惨状は空から津波に襲われたように激烈であった」と表現されるほど過激になり、人類は水を治め、水に対応しきることが、ますます大きな課題になってきているのではないでしょうか。
今回の西日本豪雨。局地的ではなく、これほど広範囲で、同時にかつ大規模に雨が降ったのは気象庁の長年の観測でも前例がないと言われています。
私が特に驚いたのは、地震や津波、台風などの自然災害が少なく、高速道路や新幹線の交通体系や、各種インフラ整備の充実がなされ、日本で最も安全な県「晴れの国おかやま」と評価されてきた、岡山県倉敷市真備町の大きな被害でした。
まさに「いつ」「どこに」「どんな」災害が発生するかわからない、国民全員が明日はわが身と思わざるを得ない教訓となりました。
そして、これからは「事後人災」を防ぎ、被災地の一日も早い復旧・復興を図らなければなりません。
その中で浮かび上がってくるさまざまな課題に政府、自治体が一体となり取り組む必要があります。例えば不明者の公表について、全国統一基準を早急に決めるべきです。救援のため、個人情報保護法を捜索資源に有効活用し、効果を上げた岡山県と消極的な初期対応であった愛媛県との差異。
また、度重なる災害対応のためには、義務教育に防災課程を入れて子どもの頃から意識のかん養を図り、さらには病院船の建造。そして、政府は現在のところ防災対応に特化した防災省のようなものは設置しないという見解ですが、自衛隊は国土防衛に専科し、名称にはこだわりませんが、新たに災害対応省、あるいは国土国民保全省のような組織を作るべきではないかと思います。そして、この組織には、鳥獣駆除や国民生活の日々のさまざまな危険に対応する権限を付与すればどうでしょうか。

阿南市長 岩浅 嘉仁

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9月 金子みすゞ

今夏、福岡で妻の叔父の初盆をすませ、帰路山口県長門市にある「金子みすゞ記念館」を訪れてきました。

 

大漁


朝焼(あさやけ)小焼(こやけ)だ
大漁(たいりょう)だ
大羽鰮(おおはいわし)の
大漁だ。

浜(はま)は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。

 

当時大学一年生だった矢崎節夫氏(童謡詩人)が、この詩に強い衝撃を受け、みすゞ捜しを始め、昭和59年、3冊の遺稿童謡集が全集として出版されました。
巷間「幻の童謡詩人」あるいは、西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と言わしめた金子みすゞが、この出版により日本はもちろん世界へ知られる嚆矢(こうし)となりました。
少女時代より、性格は優しく心持ち豊かで、周りの人や友だちに愛され、読書の大好きな利発な子どもだったそうです。
20歳の頃より、雑誌に投稿を始め、当時の有名雑誌すべてに選ばれて、その才能が開花し、またたく間に投稿詩人たちの憧れの星となっていきました。

 

私と小鳥と鈴と


私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

 

この作品は、今の時代の感性だと評価されています。
みすゞの結婚は、夫に詩作を禁じられるなど、不幸なものでした。娘「ふさえ」を残し、夫に対し「あなたはお金は与えることはできても、心の糧(かて)は与えられない。だから『ふさえ』は私の母に預けてほしい」との遺書と、自らの最後の姿を写した写真の預り証を残し、睡眠薬を飲み自裁(じさい)しました。享年26歳。識者は「もし、もう10年生きていれば、(北原)白秋、(西條)八十、(野口)雨情に次ぐ存在になったに違いない」と評していますが、人間の創造性といったものは、25歳までに現れ、それ以降は、その応用にすぎない。ワーズワース(イギリスの自然詩人)も「断定してもいい。25歳までにいい詩を書けない詩人は将来、絶対ものにならないだろう」と言っています。
みすゞは本物の詩人であったのでしょう。
「詩は愛を説くものでは無い。愛そのものの声であり、色であり、香であり、触である」。みすゞが尊敬していた北原白秋の言葉です。

阿南市長 岩浅 嘉仁

みすゞが自裁する前日に撮影した写真

  みすゞが自裁する前日に

  撮影した写真

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